Wednesday, March 21, 2012

地震の心理学:その必要性


みなリストを用意しておくべきだと思う。大きな地震のとき、電話をかけて無事を確認すべき人たちのリスト。

去年の4月、マグニチュード7.4(程度)の地震が数週間前に被害を受けたばかりの沿岸地方をまた襲った。その地震は午後11時ごろ起こった。私は就寝中だった。私を含め、同じ部屋で寝ていた全員が目を覚ました。私は半分眠ったままでラップトップを開け、地震の発生場所と大きさを調べた。日本気象学会は最新情報を即座にアップしてくれるので、私はいつも気象学会のサイトをチェックすることにしていた。そのとき電話が鳴った。

「大丈夫?」 日本で私のいちばん好きな人(名前は伏せておく)からだった。
「ええ」
「寝てたの?」
「うん」
「そこから避難する必要がある?」
「まだわからないわ」
「ラジオを見つけて情報を集めて。津波について何を言ってるかチェックして」
「わかった」
「こら」
「ん?」
「寝るなよ。深刻な事態なんだから」
「わかってる。寝ないでおこうとしてるんだけど」

そのとき、彼が苛立っていることに気がついた。彼は私が事態を深刻にとらえていないと思っているようだが、そうではない。私は単に目覚めが悪いだけ。電話を切り、私は階下に向かった。すでに停電していて、みなラジオの周りに集まっている。津波警報が出ているが、50センチ程度らしい。ひょっとすると1メートルか。いずれにしてもここまでは来ない。友人に電話をかけ直そうとしたが、電話はもう通じなかった。

今週東京でマグニチュード5.4の地震が起こったとき、この友人からまた電話がかかってきた。

「どこにいるの?」
居場所を告げると「何してるの?」と聞く。「いったいぜんたい何でそんなところにいるんだよ!」と言わんばかりの口調だ。
「晩御飯を食べているところ」
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
「誰と一緒なの?」
「どうしてそんなこと聞くの? やきもちでも焼いてるの?」
「バカなこと言うなよ。そんなこと俺には関係ないよ。俺が心配してるのに冗談なんか言って。誰か頼りになる相手と一緒かどうか知りたかっただけだ」私は申し訳ない気持ちになった。やきもちなんかじゃない。かけなくてもよい電話をかけてくれているというのに。
「ごめんなさい。私は大丈夫。今からここを出るわ」
「ハイヒール履いてる?」
このことについて最近話したばかりだ。1年前の311日、何時間もかけて徒歩で帰宅した東京の人たちの記事を読み、ハイヒールで歩いて帰ったという女性たちの話は読むたびに恐れ入った。私はもうずっと前からぺたんこ靴をバッグに入れておくことにしていたが、今日は入っていない。私はいつもこうだ。
「ええ」と答えてから急いで付け加えた。「でも大丈夫。これから帰るわ。本当に大丈夫よ」
「タクシーに乗れよ」提案というよりは命令に近い口調だ。
「大丈夫だから」と私は抵抗した。
「タクシーに乗れよ」
「わかった。そうする」

今ではマグニチュード5を超える地震があれば、東北の人たちに電話することにしている。かけなくてもよい電話をかけてくれる人がいるというのはうれしいし、元気づけられる。日本ではひとりだから、私のことを気にかけてくれている人がいるとわかっているだけでとてもうれしい。私も同じ寛容さを人に示すべきだと思うし、今は実際にそうしている。

親切を先に渡そうというのは絆の概念の一部でもある。去年一年間大きく広がったつながりや絆、友情、思いやりは今もしっかりと残っている。私の名前が誰かのリストに載っているように、今では私も電話をかける人のリストをもっている。あなたのリストには誰の名前が載っている?

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